【松山まつりと徳川家康のお世継ぎ】

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【松山まつりと徳川家康のお世継ぎ】
羽州松山総鎮守、中山神社の創建は慶安元(1648)年で、その歴史は酒井氏の松山入部にさかのぼります。当時の神社の祭神は、倉稲魂命(うかのみたまのみこと)で、羽黒山や御稲荷さんと同じ神格を持つ神様。社名の「中山」は、松山藩成立以前の近隣の旧地名に由来しており、松山藩家中や近隣からの崇敬を集めたといいます。 
延宝4(1676)年には、徳川家康の長男である松平信康公、および庄内松山両藩の藩祖である酒井忠次公を併祀するようになり「源鎮霊社」とも称するようになりました。
この松平信康公は、家康とその正室「築山殿」との間の子、名前の「信」「康」はそれぞれ、妻の父である信長と、父家康から送られています。武勇に優れ将来を嘱望されていましたが、舅織田信長に、武田家と内通を疑がわれ、天正7(1579)年21歳の若さで切腹させられてしまいました。この騒動は、この折殺害された母「築山殿」が、内通の黒幕と見なされたことから、後世「築山殿事件」と呼ばれるようになります。
内通の事実は今となっては確かめようもありませんが、家康自身は、嫡男を頼むところ大きかったらしく、のちの関ヶ原の戦いの折も「信康がいれば」とつぶやいたという話が伝わっています。
道真や将門などがそうであるように、高名な武将や貴人が志半ばで倒れた場合、しばしば神として祀られることがありますが、この悲劇の若武者に関しては、盟主信長や徳川幕府をはばかってか、祭神として扱われることが少なかったようで、全国的に見ても、ゆかりの地岡崎市の若宮八幡と当地の中山神社を含む3社が確認されるのみです。 信康公が山形県の中山神社で祀られるようになった理由については、諸説がありますが、徳川家家臣の筆頭格であった藩祖酒井忠次公が「築山殿事件」の収束にむけ、信長との折衝に当たった折、信康公の切腹にも深くかかわってしまったため、羽州酒井家が後代に至るまで、その御霊をあつく敬い鎮めたというのが通説となっています。
神社の祭礼は5月1日に行われ、かつて、神輿が神宿へ渡る際に、藩より警護の士を出した故事に倣い、現在も壮麗な武者行列が行われています。
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「松山祭」は、来る月曜日。午後1時ころからは数十名の地元中学生たちが若武者に扮して、春の松山の城下を練り歩きます。
また、武者行列のほかにも、荻野流砲術の演武や、上堰あたりへの屋台の出店など、にぎやかな企画がたくさん。今年も多くのお客様でにぎわうといいですね。

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